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バガン漆器の美 祈りと手仕事が生む静かな輝き

バガン漆器(Bagan Lacquerware)は、ミャンマーを代表する伝統工芸であり、「実用品」と「美術品」の中間に位置する独自の芸術文化です。土着の素材と仏教的装飾、そして王朝期の宮廷文化が融合して生まれたものであり、単なる工芸ではなく“祈りと日常をつなぐ器”として発展しました。以下、文化的・技術的・象徴的な観点から整理します。

目次

バガン漆器の源流と成立

バガン漆器(Bagan Lacquerware)の起源は、11〜13世紀に栄えたバガン王朝時代にさかのぼります。
漆(ティー樹液)を使う技法は古代中国やタイ、ラオスなどにも見られますが、バガンでは仏教の影響を受けて独自に発展しました。

この地域では、王族・僧院・上層の人々が供物を納める「供物器」や、経典を収める箱、儀礼のための器として漆器を重用しました。したがって、実用品でありながら宗教的・象徴的な意味を帯びているのが特徴です。

材料と技術の特徴

バガン漆器は、軽く柔軟性のある竹や馬の毛を編み、その上に漆を何層にも塗り重ねて作られます。
漆を塗って乾かし、磨く工程を十数回繰り返すため、一つの器を仕上げるのに数か月を要します。

彩色技法の代表が「ヨーべー(Yoe-bae)」と呼ばれる彫刻漆。
表面に細密な文様を彫り込み、そこに赤・緑・黄などの顔料を漆で混ぜて埋め込むことで、繊細な多層色の模様が浮かび上がります。
これは単なる絵付けではなく、彫刻と絵画の中間のような表現技法です。

最近では、天然漆の黒や深い朱色に加え、モダンな金彩や幾何学模様を取り入れる職人も増えていますが、いずれも手作業と時間の積み重ねに支えられています。

本物は非常に厚みがあります。すべて受注生産、実店舗ではあまり見かけません。

模様に込められた世界観

バガン漆器の文様は、単なる装飾ではありません。
そこには仏教思想・自然観・吉祥の象徴が込められています。

たとえば、蓮の花は清浄、孔雀は高貴、獅子やナーガ(龍)は守護を意味します。
また、バガンの寺院壁画に見られる「ジャータカ物語(釈迦の前世譚)」の場面が彫られた作品もあり、漆器が“語る聖典”としての役割を果たしてきました。

漆の深い光沢は、光を吸い込みながらやわらかく返す性質を持ち、そこに宗教的な静けさや瞑想的な美意識が宿ります。
バガンの乾いた赤土の風景と、艶やかな漆の黒。その対比が、見る者に独特の神聖さを感じさせるのです。

日常と祈りのあいだにある器

バガン漆器は、もともと寺院や儀礼用に作られたものですが、同時に人々の生活にも溶け込んでいました。
ご飯を盛る鉢、茶葉を入れる缶、衣を収める箱。
手に触れることで温もりを感じ、使いながら艶が深まる。
“育つ器”としての側面を持つ点が、日本の漆文化にも通じます。

こうした日常と祈りのあいだにある感覚は、東南アジアの工芸全体にも共通するものですが、バガン漆器は特に宗教性と実用性のバランスが美しいとされています。

インドのコレクターが所有している古いバガン漆器

現代における継承と課題

現在、バガン周辺の村(ミンナトゥ村、ミンカバー村など)には数百の漆器工房があります。
観光需要の増加とともに輸出用の大量生産も進みましたが、一方で伝統的な手彫り・天然漆仕上げの技術が失われつつあるという指摘もあります。

気候変化による漆原料の確保難、若手職人の減少、合成塗料の使用など、課題は多いです。
それでも、手間を惜しまぬ本格的な工房では、仏教儀礼や伝統デザインを守りながら、現代の色彩感覚を融合させた作品づくりが続けられています。

バガン漆器が真価を発揮するのは、観光土産ではなく“長く使われる器”として生き続けるときです。
日常に置いても静かに光をたたえ、時とともに深まる艶。その変化こそが、祈りに似た美しさを宿しています。

光をたたえる闇の器

バガン漆器の魅力は、単なる手仕事の精緻さではなく、「光と闇の対話」にあります。
乾いた赤土の大地に立つ千の仏塔、その影の奥で生まれた黒漆の器。
静寂の中にある艶は、祈りの時間を封じ込めたようです。

現代の私たちにとって、バガン漆器は“古い工芸品”ではなく、“時間と信仰の記憶を受け継ぐメディア”なのかもしれません。
一枚の器に刻まれた文様を見つめると、そこには千年前の祈りと、いまを生きる職人の手が、確かに重なっているのです。

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